オレンジ色のゴムボートが1艇。人影の全くない小さな入り江に浮かんでいる。ボートは海底に沈められたアンカーに固定され、艇内にはオール2本とクーラーボックスが1つ、無造作に重ねられた2人分の衣類とバスタオル、それから、まだ海水にたっぷりと濡れた檸檬イエローのビキニ。
ごぼ、ごぼ。
>>みみみ皆さん。怒らないでください。これ彼女のアイディアなんです。春日恭介、断じて“生まれたまんまのキミを収めたい”などとは言っていないのであり。ただ、“人魚を撮りたい”と言っただけでして。
『おはよ。生きてる?』
ごぼ。
>>こんな写真が撮れたらと思ったことが全く無いワケじゃないけど。でもそれは、実現不可能。スケベな男の一生叶わない妄想で終わるハズだったのであり。まさか…こんな…。
『ゴッツンコしたの。思いっ切りね』
ぐぉぼ。ぐぼぼ。
>>珊瑚礁に囲まれ、色とりどりの熱帯魚達と一緒に泳ぐ彼女は…。美しさという価値を超越しているとさえ思え…
『たんこぶくらいで済んだんだから、ラッキーなの!。キミは死にそーだったんだゾ。覚えてないと思うけど』
ごぼ、ごぼぼ。ごぼごぼ。
>>このまま溺れてしまっても僕は後悔しない、神聖な生き物と出逢った…そんな一瞬です。
「よしっと…」
ボートの艇内。まどかの手指がビキニの着心地を整え終わったところ。今、ボート脇の海面に恭介が浮上してくる。
「ぷはっ。あ、もう着ちゃったの…」
「ふ。活き活きしちゃって」
「ねえ、そろそろ教えてよ。何かすごく息苦しい夢を見てたような気がするんだけど…」
「この島の珊瑚礁にだけ生息する毒クラゲだって。恭介、首に傷があるでしょ?。それ、刺された痕」
「じゃ、昨日、泳いだときに刺されたのか…。と言うことは…この辺に浮かんでたり、しちゃったりするのかな…ひぇぇ」
「刺されてから症状が出るまで時間がかかる。だから、手遅れになる確率が高いんだってさ」
「うわぁ…」
「毒が体中に回っちゃうと一生、正気を失ったまま戻らないんだって。危なかったね」
「よ、よく助かったなぁ」
「マーメイドのウロコ」
「はい?」
「すりつぶして、恭介に飲ませたんだ」
「それって、いわゆる解毒薬みたいなもの?」
「うん。まぁ、そんな感じ…」
「な〜る、そうだったのか………って違うだろ?。クラゲに刺されたんなら、まどかの首に痕が残っているハズじゃないか!」
「ぷっ。あはははははは」
「いい加減にホントーの事を教えてくれよ!」
「じゃ、じゃあ、教えてあげる」
「よ、よし…」
「恭介、この島に着いてから行った?」
「へ?。行ったって?」
「昨日行ったところを、おさらいしてみて」
「わかった。っとぉ、空港からホテルに直行して、それから、マーメイドビーチに行って、一旦ホテルに戻って着替えて、そのあと、ディナーして飲み過ぎて、んで…ホテルに戻ってきて、まどかに襲われそうになって…それから…プッツリです。なははは」
「なるほどぉ〜。やっぱり、行ってない」
「?」
「やい!。春日恭介!」
「なな、何でしょうか…」
「超能力者だって人間だろ?」
「そりゃそーさ。悩みもするし、ご飯も食べるし、トイレもいく!」
「我慢もするでしょ?」
>>つ、つまる…じゃなくてつまり。僕はトイレを我慢していたのです。酔い潰れた後、そのまま夢の中に持ち込んでしまったというワケで。自分の身体なら意識しない事も、身体が入れ替わると妙に意識しちゃって、一大事になってしまう事があるのであり。出来る事ならしたくない…でも、どんなに後のばしにしたからといって、逃れられない生理現象というものがあるのであり。
「ごめん!。ホントーにごめん!」
「いーよ。アタシも恭介の身体、傷物にしちゃったし」
「あ、そうだ。首の傷…なんなの?」
「うん。それはね…」
「うんうん」
「捕まえられたら、教えてあげる♪」
「へ?」
ザボッ。
鮎川まどかは波で撹拌された光のカーテンが揺らめくラグーンに潜っていた。珊瑚が重なり合って作り出した暗部でひときわ神秘的な輝きを放つ落とし物が彼女を呼んでいる。その煌めきが、彼女の瞳に写り込んでいっぱいになる。次の瞬間、鮎川邸でレースのカーテンが揺らめく脇、ギタースタンドに立てかけられたテレキャスターの1フレット目に挟まれたギター・ピックへとフェードチェンジ。それは、彼女がこの島から持ち帰ったこの世にたった1枚のスペシャル・シング。春日恭介はそのピックを見つけてきっと、こう言うのだ。
『わっ。まだ、こんなアブナイ物持ってたのかぁ〜?!』
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