僕はキミを奪って、逃げる。
神の手も届かない、ところへ。
純真も汚れも一緒に抱き、逃げてみせる。
そんな、かっこいい事、言えないけど…。
歩いて数分、走ったら…何とかなる距離と暗算できた。青年は人魚の両腕を自らの首に巻き付けると、胸元へ抱え上げ、『マーメイド・ビーチ』目指して走りだしたのだ。
『バカ!。何言ってるんだ!。しっかり掴まって!』
『バカはどっちよ!。あなただって捕まったらただじゃ済まないのよ。超能力者だって事バレたらどうするの?!』
人魚の頬には青年から頂戴した手加減抜きの叱咤の痕がくっきりと残っていた。彼の首に絡めた右腕を解き、彼の胸へ、手のひらを添えてみた。心臓がムキになって踏んだ足踏みポンプみたいに鼓動している。その先でぐんぐん膨らんだサーフライダーが破裂してしまうんじゃないかと思えるくらい。
「着いたよ。海なら誰もキミを捕まえられないだろ?」
「……………」
「ど、どうしたの?」
「…………ね、キスしてくれない?」
「え…ま、また?」
「最後のわがまま、って言ったらしてくれる?」
「………わかった。でも、空港の時みたいに、し、舌入れようとするのはナシだよ。いい?」
この人魚映画は一方的なキスで始まり、合意のキスで終わるのだった。宵の渚。凪いだ海面は鏡張りのよう、珊瑚が砕けてできた星の砂、神妙な波打ち際で儀式は執り行われた。星明かりがクライマックスに影絵の効果を与え、浮かび上がらせている。
「ありがとう、春日恭介。体中が痺れたわ。これで人間に戻れる…」
「戻れるって?」
「人間に戻る方法その2。人魚デビューした後に好きになったフツーの人間の男にキスしてもらう」
「な、なん…………」
「人魚になった人間がもう一度人間に戻るとき、人魚として生きた時間が人間の年齢に換算されるの。美貌も若さも失ってしまう。今、すっごく体中がウズウズしてるのよ…徐々に老化が始まってるわ。あと数時間もすれば人間に戻って…そのまま砂になる…。わたしと入れ替わった人魚と同じように」
「どうしてそれを先に言わなかったんだ!」
「あなただってフツーの人間だって事、隠していたじゃない。僕は超能力者だーなんて言っちゃって?」
「あ、あれは……」
「ふふ。お互い様よ。わたし世界中の海を泳いできた。でもどんな海の温度より、あなたの体温を感じた時、幸せな気分になった。彼女が居るくせに、悪いオ・ト・コ♪」
「いや、そんな、僕は…………」
「わかってる。わたしね、この方法はとっくに諦めてた。フツーの男を好きなるなんて…もし相手がわたしを好きになってしまったら…、どうにもならない運命を重ねるような事は繰り返したくなかったから。あなたを超能力者だと勘違いして安心しちゃったのかな……思いっ切りひっぱたいてくれちゃったけど?」
「ごめん!。…痛かった?」
「すごく、すっごぉ〜〜〜〜く
……………嬉しかったわ」
水しぶきが上がった。人魚は尾鰭を振って反動を付け、同時に両手で青年の胸を突っぱねたのだ。人魚は入海。人魚に突き飛ばされた青年は砂の上で尻餅をついた。
「あいたた…」
「こんな時、日本では“逃がしたサカナは大きい”って言うんでしょ?」
「そ?、…そうさ。それでその後、“海のばかやろー”って叫ぶのが正しい日本人なんだ」
ひとしきり笑い零す2人。が、この瞬間を持ってしても運命は変えられないのだ。互いの瞳がやはり、笑っていない事にお互いが気付いた時、それが離別の合図だった。青年からは海面から出た人魚の肩上が徐々に遠ざかって行くと見てとれた。人魚は沖に向かって、誰にも捕まえられないトコロへと泳ぎだしたのだ。
この間合いはもう、埋まらない…。
「教えてくれないか!。キミの名前!。まだ、訊いてない!」
「わたしは人魚ー。だから人間の名前なんていらないのー。ぜぇ〜んぶ忘れてー。あなたはー、ちゃんとぉー、彼女の元へ帰るのよー。じゃーねー」
「忘れるもんか!。キミの事、絶対!。忘れないからぁー!!」
海は何も応えなかった。人魚が残した波紋が広がり、青年の足下で打ち消えているだけだった。
「ん?…」
濡れたウロコが1枚、青年の腹部に張り付いていた。それは、薄いティアドロップ型のギターピックに似ていた。手に取り星明かりにかざすと弱い光源にも関わらず、角度によって変幻自在に色彩を変え、指を切らなかったのが不思議なほど、縁はカミソリのごとく鋭利だった。
「…せつない、か」
心の響きに正直であり続けた。響きに抗えなかった。
そんな恋に生きた女、そのものだった。
あなたはわたしを、奪った。
神の手も届かない、ところへ。
確かに…。
わたしをさらって、逃げたのよ。
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