「ここが形而科のフロアです」
「変わらないわね…」
「え?」
「あぁ、何でもないの。ここまでありがとう。あとは独りで行けるわ」
「そうですか。じゃあ僕はこれで」
2人は廊下を歩き始めた。全く同じ方向へ。そして、超常現象研究室と札を掲げた部屋の扉の前でやはり、同時に歩みを止めた。
「あれ?。ここに用事ですか?」
「そうよ。忘れちゃったのかな?」
「へ?」
「ボ・ク・は・キ・ミ・の・こ・と・わ・す・れ・て・な・い・よ」
「…ぼ、ボク?」
「キミは純情を奪った相手の名前も覚えてないんだね」
彼女はハンドバックから黒縁の眼鏡を取り出し、うつむき加減にそれをかけた。とびきり野暮な黒縁。その眼鏡には今も、度は入っていない。彼女が顔を上げる。エッチな漫画、ボク、黒縁の眼鏡…春日恭介の中で記憶の断片が1つに繋がった。
「あっ!」
「あっ、じゃないの。全然気づかないんだから」
酸欠の金魚みたいに…そう、またしても。はぐはぐと春日恭介は言葉を喉に詰まらせている。その現場に屋上でランチタイムを終えた鮎川まどかが歩いてきた。彼女は一目して、春日恭介の傍らにいる存在を認識できたようである。
「恭介クン。彼女を紹介してくれない?」
黒縁のダテ眼鏡をはずし、杉ひろみは微笑んだ。
その微笑みの中に、自分の運命を呪っていた頃の少女はいない。
その事に気づいた者も、いない─────。
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