どこかの誰かさんのよーね、と鮎川まどかが心の中で照合してしまった誰かさんは自宅マンションに居た。つい先刻、鮎川まどかから呼び出しの電話を受け取った彼。さて、出かけようとしたら大切な物がない──コードレスフォンの子機を握り、やや額に汗をにじませている。
「ええ、そうです。昨日、乗車した21号車だと思うんですが…落とし物か忘れ物で届いていませんか?」
届いていませんね、と先方は答えたのだろう。彼はあきらめの表情へと墜ちてゆく。が、何かに取り憑かれたように電話帳をめくり、いずこかへコールをした。懇願に近い声音で彼は子機を握りなおす。
「はい、昨日の11時50分です。改札を抜けて階段を降りた辺りなんですが、それらしい落とし物は届いていませんか?」
届いていませんね、と先方は繰り返したのだろう。彼はふうと深く溜息を吐いた。人間、あきらめが肝心な時もある。
「お兄ちゃん。やっぱり家の中には無いわ」
「まなみサンキュー。もういいよ。新しいのを発行してもらうから」
「なんかずーっと以前にも学生証ないないーって事、あったわよね」
「あったっけ?」
「なかったっけ?。わたしの記憶違いかしら…」
「うーん」
「って、悩んでていいの?。まどかさん急用なんでしょう?」
春日まなみのセリフに弾かれるよう、春日恭介は昼時の太陽の下へと飛び出していった。入れ替わるように訪問者が1人。
「むぁなみぃ〜」
「きゃーーーーっ!(ジンゴロ投げつけ)」
昼寝を邪魔され、不機嫌極まりない野獣と化したジンゴロが、突然の訪問者へ容赦ないツメ立てと猫キックの連打を見舞う。
「ぐはっ。げはっ。ここ、こりゃ、やめんか!。ワシじゃ!」
「おじいちゃん!?」
「じ、ジンゴロをなんとかせい!」
「んもぅ。びっくりさせないでよ。ジンゴロ。おーやーめ」
「ふはぁ。まいったまいった」
「いつからそこにいたの?」
「ほれ、窓が開いておったでの」
「玄関からお願いします!」
「癇癪(かんしゃく)をおこすとお肌にさわるぞよ?」
「…っ。おじーちゃん!」
「ぬぁっはっは。怒るでない怒るでない。どうじゃ明日、海辺でバーベキューでもやらんか?」
「やりません。勉強します。家事もあるし。」
「お医者の卵が大変だっちゅーのはわかるがの。夏じゃよ夏。たまには羽を伸ばしなさい。家事はばーさんが代わる。それでいいじゃろ?」
「おじいちゃん。わたしに気を遣ってる?」
「そう思うんだったら、老い先短いじじーのワガママをきいてもらえんかの?」
「ふ、あはは。負けました。じゃ、みんなに連絡してみるね」
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