2人掛けの丸テーブルの中央には黒い陶製の灰皿。アイスコーヒーとオレンジジュースのグラスが向きあい密談を交わす。艶っぽい女性の声としゃがれた老人の声。地上5階の分厚いガラス窓からは、夏の午後の陽射しの中で沈黙する港を一望にでき、時折、観覧車が投げてくる反射に目が眩む。カッフェは夏を見渡していた。
「今日ここへ来る途中、彼と遭遇しました」
「んぬ?」
女性の指が、白く燃え尽きたシガレットの先をこそぎ落とすように、灰皿の上で回転させた。白いフィルタ部分に口紅が付着している。
「わたしの不注意です。久しぶりに日本の土を踏んで感傷的になっていたのかも知れません」
「もしや、階段か?」
「ふふ。お察しのとおりです。踏み外した瞬間にパワーでケアを試みましたが、コントロールに失敗しました。おそらく、身体が完全に宙へ浮いていましたね」
「ぬはは。それは傑作じゃ。お主が慌ててしくじる事もあるんじゃの。で、どうなった?」
「放り出された瞬間とほぼ同時にパワーダウンしてしまって、引力の誘うまま、やや放物線を描きながら落下しました。きっと夏バテですね。傍目から見ると派手に階段から落ちた、という状況だったと思います」
「長旅で疲労が溜まっておったんじゃろう。して、その先は?」
「運良く落下した位置に男性がいて抱き留めてくれました。お礼を言う際、その男性が彼だとわかったんです」
「ふむ。察するに、あヤツはお主に気づかなんだか?」
「はい」
女性の指はシガレットを灰皿へ押しつけ念入りに消している。その動作の後、アイスコーヒーの氷がストローに撹拌され、柔らかくぶつかりあう音がした。やや声のトーンを抑え老人が続ける。
「そうか……ならば、あヤツの記憶は操作せんでもよいな」
「わたしの記憶ではなく彼の記憶を、ですか?」
「そうじゃよ。お主の行動に支障がでるじゃろ?」
「ひとつ。お訊きしてよろしいですか?」
「何じゃ?」
「本来なら全てのケースにおいて彼が優先されるべきなのに、何故、今回はわたしの希望を叶えてくださるのです?」
オレンジジュースの氷が鳴った。のどを潤した老人の声に威厳がこもる。
「いにしえより我々は掟を守ることで厄災を遠ざけてきた。戒めには理がこもっておる。されど、その理を破らねば一切の光を失う時もある。今がまさにその時なんじゃよ。それとな…」
「………………」
ライターの石が数回、火花を散らす音。その後、老人は深く、ゆっくりと息を吐いた。彼は慎重な口調で続ける。
「ひろみ。お主はあの時の仕打ちを恨んでおろう?」
「お覗きになればよろしいのに?」
「こ、小娘(こむすめ)のスカートの中身なんぞに興味はないわい」
「ふふ。小娘は女になるんですよ。女になって今は、運命を恨んでいた小娘を懐かしく思っているんです」
穏やかな口調で発せられた女性の言葉は、老人が抱えていた数年来の罪悪感を見透かしていた。老人の口調に安堵の溜息が混じる。
「その気性は母親譲りかの?」
「父だと思います」
「そうじゃな…」
「ええ、そうです」
アイスコーヒーとオレンジジュースの氷が同時に鳴った。紫煙が2つに増え、絡んで消えた。それから2人の会話は夏休みの計画を立てる恋人同士の密談のように弾んだのだ。
「では、あの2人とは正式に明日、顔合わせをするんじゃな?」
「その予定です。何かご指示はありますか?」
「ワシはお主に賭けたのじゃから横やりは入れん。ただ、力になれることがあったら遠慮せずに相談するがええ。老いたとてテクニ〜ックは若いモンに負けておらんからの!。ぬは、むははは」
「うふ。では、さっそくですが、彼の現時点における交友スケールを把握したいので、データづくりに協力していただけませんか?」
「ほ。それなら皆を集めて海辺でバーベキューでもするといいじゃろう」
「あ。それは楽しそうですね。でも、バーベキューの焼け具合に気を取られて観察が疎かになりそうですけれど?」
「ふはは。それもよいじゃろう。何事も焦ってはならん。余裕、ゆとりを持ってとりかからねばの。お主もたぁ〜んと食べて夏バテ解消と1石2鳥じゃろ?。明後日でどうじゃ?。このワシがせっちんぐしてやるわい!」
「よろしくお願いします」
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