階段を昇るときは、数を数えるくらい余裕をもたなければ。
勢い余り、大切なモノを落としてしまったりする。
<11時50分か…よし!。この時間ならなんとか間に合うぞ>
この夏。春日恭介は自動車教習所へ通っている。今日は遅刻スレスレの、最近の彼にしては、やや珍しい慌てぶりなのだった。駅の地下構内を走り、地上の改札口へ急いでいるところ。
左壁づたいに走っている彼の視界の中で電光表示が弾む。【←改札口】、つまり、この先は左折。曲がった先には昇り階段が続き、そのまた先に改札口がある。が、左折の角まで壁の切れ目はなく見通しは最悪。彼の脳裏には、鮎川まどか直伝の運転者その心得第1箇条が浮かぶ。彼女は彼の鼻先に人差し指を立て、こう伝授したのだ。
『たぶん、じゃなくて、もしかしたら、って意識を持つ事が大切なの。確認確認よ。慣れた頃が一番、アブナイんだから』
春日恭介は曲がり角の手前で、早足の速度までスローダウンし、聴覚の感度を上げた。超能力を使って横着…いや、死角の先に人間の足音が無いか確かめようというわけ。
<誰もいないな。>
彼は結果に自信があった。けれど、超能力者、故に陥りやすい知覚のブラインドというものがある。自らのおっちょこちょいな性分も忘れていた。フツーの人間にありがちな、緊張のピーク直後に陥りやすい意識空白もあいまって、彼の意識は死角をまたぎ、その先の階段の1段目へ飛んでいたのだ。果たして彼は、『その瞬間』へと続く運命をトレースしつつ、左折を試みる。
「!」
多感な時期のあの日の朝のよう──あくまでも不意に『その瞬間』は彼を襲撃した。いっそ超能力を使うならば死角の先の様子を『透視』するべきだった。あろうことか『物体』は宙に存在し、“もはや避けられぬ、この運命を受け止めよ”と言わんばかりに、彼の至近距離まで落下してきていたのである。CLASH
?!
「わぁっ!」
無防備へと沈んでいた春日恭介の意識は爆発的に励起され、見知らぬ女性の体香と柔らかな肉感を乗せて、両腕と脳の間をはちゃめちゃに飛び交っていた。彼の両腕は咄嗟に、1人の見知らぬ女性を抱き留めていたのだ。超能力は使っていない、いつの頃からか彼が会得した条件反射のなせる業だった。
「だ、だいじょうぶかい?」
「ええ、…ありがと」
「よかった。じゃ!」
美女の窮地を救い風のごとく去る。傍目にクールな振る舞いも、当事者である彼の動悸は21歳の青年らしく?健全な方向へ血を巡らせていた。階段を1段飛びに駆け昇る春日恭介の胸中。
<き、綺麗なヒトだったな…>
だったら名前と電話番号くらい訊いておけ、などと彼を責めてはイケナイ。急がねば。1秒をせかされるように、自動車教習所へ向かって走らねばならないのだ。エッチな不整脈もなんのその。振り向かずに走れ───春日恭介、21歳の夏。
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