至れり尽くせりの設備が整ったレコーディングスタジオ。レイジがグランドピアノを弾きながら歌っている。その脇で春日まなみが聴き入っている。2人はライブのリハーサルをしている最中。
「まなみちゃん、何テイク目が気に入った?」
「わたしは2テイク目が好きでした」
「よし。じゃ2テイク目にしよう」
「い、いいんですか?。わたしの意見なんか…」
「いいんだよ。いっそ唄えば良くなります、ので、ワンマンライブを企画しました、最後までお手伝いさせてください、と言ったのはキミだぜ。だから、いいんだ」
レイジの瞳は優しい光を放っている。あの雨の夜のギラギラとした零度はそこにない。
「よし。じゃぁ、今日のラスト。サビの2コーラス目がちょっと不安定なんだ。そこの歌詞を変えて3テイク演ってみる。準備はいいかい?」
「はい!」
レイジの演奏がミキシングルームのモニタースピーカーを鳴らしている。コンソールの前に座った鮎川まどかは、防音ガラス越しに瞳を輝かせている。彼女の隣に立つ長身のヤサ男はスター=早川みつる。彼がこのスタジオのオーナーだったりする。
「いい声だな。」
「それだけ?」
「…………何を言わせたいんだ?」
「別に。」
「あのなぁ、オレにもプロとしてのプライドがあるんだぜ?」
「ふーん。早川みつるはプロのプライドで音楽を判断したりしないアーティストだと思っていたけど。幻滅ね」
「ぅ…。オマエには敵わないな…はいはい、負けたよ。アイツは本物だ。正直、こんなに素直なジェラシーを感じたのは久しぶりだぜ。正確に言うと2度目だがな」
「いけそう?」
「おい、まどか」
「何?」
「商品として可能性がなかったらリハーサルのためにスタジオを開放し、ワンマンのコンサートを手配するほどオレはアドベンチャーじゃないぜ。伊達にショー・ビジネスの世界でトップを張ってきたワケじゃないんだ。そこんとこ、計算ずくでオレにこの話をもちかけたんだろ?」
「裏読みもスーパースター級ね。惚れたわ」
「ちぇ。言いやがら。でも、オマエがマジでその気になったら、オレは春日なんかよりいいパートナーになれると思うぜ」
「アタシが千回、生まれ変わってもそれはないけどね」
「なら、どうしてオレに借りをつくった?」
「ピアノのインスト、ドラマ用に欲しいって言ってたでしょ?」
早川みつるは鮎川まどかが差し出したファイルケースを開いた。譜面とDATカセットがあった。全7曲。彼は、どういう風の吹き回しだ、と言いたげな表情でまどかへ視線を返す。
「曲のクレジットは好きにして。借りは作りたくない」
レイジの演奏が止まった。まなみがこちらに向かって手を振っている。リハーサルは終了したようだ。鮎川まどかはそれを見留め、コンソールのトークバックスイッチを押すと中の2人に「おつかれさま」と告げた。リハーサルの模様を収録したDATカセットを手にすると、彼女はミキシングルームから去ろうとする。
「おい、まどか」
「不満?」
「いや、不満はない。クレジットも変えるつもりはない」
「なら、この件についてはチャラね」
「不満はないが、ひとりのアーティストとして鮎川まどかにリクエストがある。次は歌モノを作れよ。誰もが口ずさめるようなヒットソングをさ」
「却下。アタシはヒット曲を作りたいなんて思ったことないの。それに、言っておくけどアタシはアマチュアよ。ヒットソングが欲しかったら、ちゃんとしたプロに作曲を依頼したほうがいいわ。じゃネ」
鮎川まどかの捨てゼリフがミキシングルームの中に残った。その残響を早川みつるは耳の中でもどかしく感じていた。
「ちゃんとしたプロ、か…。オマエがアマチュアだっていうなら、この業界のほとんどの連中は金を返さなきゃならないぜ。ったく、わかってないな」
呟きながら彼は、DATカセットをデッキへ入れ、コンソールのフェーダーをあげた。鮎川まどかのピアノがリプレイされる。15秒ほど聴き、彼は嬉しそうに端正な顔をゆがめ、ふふと吹いた。こみ上げる喜びを抑えることができなかったのだ。
「…これが売れちまったら、どうするつもりなんだ。アイツ?」
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