ぼんやりとした霧。視界が鮮明になるにつれて、その白色が薄明るい天井であることがわかった。場面は病院の一室。照明の消えた部屋の内部に目視が効くのは、窓辺から街の灯りがさしこんでいるせい。窓を流れる雨水の糸が壁に投影されている。窓の外は本降りになっていた。ベッドの脇には水気をふき取られたキーボードが立てかけてある。
「…………………。」
「大袈裟だとは思ったんですが、こうなりました…」
「恥ずかしいところを見られちゃったな…」
「あ。倒れて水たまりで泳いだ、なんて誰にもいいません!」
「ふ?。はは。楽器、キミが運んでくれたの?」
「はい。救急車で一緒に」
「ありがとう。夢の中で楽器が心配だった…」
「大切なモノですものね」
「あぁ。キミの名前、教えてくれない?」
「まなみです。春日まなみ」
「柔らかくて暖かい響きがする………ホッとする響きだ…」
「そ、そうですか?」
「うん。俺は」
「レイジさん」
「え?。知ってたの俺のこと?」
「毎週、金曜の夜はあのシャッターの前でレイジさんが歌っているの聴いていたんです。人垣の中ではなくて、ちょっと離れたところから…なんですけど。今夜はいらっしゃらなかったから、お休みなんだと思って、そしたら、あの公園の前を通りかかったとき、レイジさんの歌声が聞こえたモノですから…それで」
「なるほど…、ゴホッ」
「軽い肺炎をおこしているそうです。しばらく自宅で安静にしてください、と担当医の方がおっしゃっていました。ご家族へ連絡を取られた方が…」
「いや。身内はNG。勘当同然に飛び出してきたから…」
「では、音楽仲間に…それか、彼女とか…」
「両方NGだね。仲間と呼べる人間はいないし、彼女もいない。ボロ・アパートで独り暮らしだよ。ま、なんとかなるさ。今までも独りでなんとかしてきたんだ」
「そ、それでしたら、しばらくの間わたしにお世話させてくださいませんか?。恩を着せようとか、ファンの人たちを差し置いてレイジさんを独り占めしようか、そういうのではなくって、差し出がましい事は重々承知なんですが、その、一人暮らしでは安静にするのもままならないと思いますし…えと、だから…お洗濯とかお掃除とかなら…」
「ありがとう、と素直にお礼を言いたいトコなんだけど、ジャニスとキミは仲良くやれるかなぁ…。俺以外の人間が部屋にはいると本気で爪を立てるんだよ、アイツ。」
「ジャニス…猫さんですね?」
「ワケありのソマリ。プライドが高いくせに寂しがり屋でね、とっても猫らしいヤツさ。自分を俺の恋人だと思いこんでる」
「メスなんですか?」
「あぁ。もし、俺がキミを襲おうとしたら間違いなく、その前に俺がジャニスにやられるな。だから心配しなくてもいい。と言っても、説得力はない…か…」
「そのことなんですが…わたし、信じます。レイジさんの歌好きだから…」
「……………。」
「あ、では明日、お迎えに来ます。それまでは大人しく寝ていてくださいね」
「…まなみちゃん」
「はい?」
「いや……大人しく寝るよ」
「では、明日」
まなみが去った後、レイジは白くぼやけた天井へ向かい、呟いた。
「いきがったところで実際、今の俺はなんにもできない…限界なのかもな。ジャニスと同じだ…」
レイジはかき消すように首を振った。弱気になってはいけないと自分自身を叱るように。
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