春日まなみのオーディオラックにはCDが数枚あるだけ。彼女は一途に1人のアーティストを応援してきた。そして、これからも彼を応援してゆくつもり。まなみの人差し指がリモコンのボタンを押す。FMチューナーが目覚めた。部屋に広がった振動を春日まなみの心は柔らかい周波数でキャッチする。彼女に語りかけてくるのは彼のヴォイス。まなみを包んで透きとおってゆく。
───俺がビンボーしながら音楽やってた時さ。ある時期、全く曲が作れなくなった。今思えばそれはスランプとは違ったけれど、その時の俺はスランプだと思っていたから、その夜もキーボードを抱えてストリートへと繰り出した。がむしゃらに歌えば、なにか切欠がつかめると思ったんだ。9月も後半で、Tシャツ1枚じゃ肌寒い金曜の夜だったな。
───俺が歌っていた場所は花屋さんのシャッターの前。季節の花をペイントし直すマメな花屋さんでね、お気に入りの場所だったんだ。あいにく、その夜に限って先約がいた。たしか、今売り出し中のファンクバンド、『ゲラッパ』の連中だったと思う。俺はしかたない、まぁ、そういう日もあるさって、いっそシチュエーションを変え、港の見える公園で曲作りをすることにしたんだ。
───カップルのいない場所を探すのに時間はかからなかった。ホントかどうか知らないけど、縁切りで有名なモニュメントがあってね。その周辺には誰もいないというわけ。俺は台座の段差を利用してキーボードをセットし、ひやりと冷たい地球へ座った。そして、鍵盤へと指を添え目を閉じ、一面のお花畑を想像してみたんだ。色とりどりの花びら、極彩色の蝶、甘く不思議な香り。降りてくるメロディーと言葉を紡いでいるうちに、なんだかノッてきて、その世界の住人になったような気がした。けれど、心の何処かで、決定的に足りない何かに怯えていたんだ。
───俺は歌った。足りない何かを掴もうと、歌った。けれど、いくら鍵盤を叩こうが、シャウトしようが、足りない何かは見えてこなかった。それでも、歌い続けてた。自分が歯がゆくて、どうしようもない夜になってしまいそうだったんだ。その夜がずっと永遠に続いてしまうような恐怖があった。それが許せなかった。俺は自分のために歌っていたのさ。そう、曲を作り始めたときからずっと、ね。
───もう今夜はダメだと思った時、ふっと何かが頭の上でよぎった。目を開けると、そこに眼鏡をかけた天使が立っていた。傘をさしかけてくれていたんだ。いつの間にか雨が降っていて、その事に俺は気づいていなかったんだな。恥ずかしいよ。だって作りかけの曲をあーでもないこーでもないって、苦しんでいる姿を間近で見られてしまったんだから。全然クールじゃない。俺は言葉を失い、呆然と天使を見上げていた。
「あ、あの…風邪ひいちゃいます…」
「……………。」
「あ、あ、あ、余計な事しちゃってごめんなさい!」
「…………いいんだ。ありがとう。でも…」
「……………。」
「キミの傘は一本しかない。だろ?」
「そ、その心配にはおよびません。わたし家が近くなんです。ですので、お使いになってください」
「傘はキミのだ、キミが使えよ。俺に傘はいらない。雨に打たれて少し頭を冷やした方がいいんだ」
「だ、ダメです!。シンガーは身体を大切にしないといけません。もし、風邪をひいて喉をからしてしまったら、パフォーマンスに影響がでちゃいます!」
「じゃ、こうしよう。その傘はキミが使う。俺は濡れて帰る。で、もし俺が風邪をひいたらキミが暖めて看病してくれ」
「え…そ…」
「つまり、そーゆー事さ。キミの親切は嬉しかった。だから、俺には関わらない方がいい。ま、でも今夜は引きあげるよ。風邪をひかないうちに、ね?」
「あの…」
「ん?。まだ何か用?」
「………………いえ…」
「なら、キミも早く帰った方がい…っ、クション!」
「あ。」
「ん…。どーやら手遅れだったみたいだ。…ぅ…っ、クション!!」
「ちょっと失礼します!」
「…………。」
「熱があります。37、いえ、38度越えてる…」
「すごいなぁ…手を当てるだけでわかるんだ?」
「一応、医学生ですから。そんなことより、早く身体を休ませないと」
「あぁ、そうだね。体温を聞いたらマジで体調悪くなってきた…」
「すみません。余計なことしてしまいました…」
「いいさ。キミのせいじゃない。…おわっ!」
「しっかり!」
「冷たくて気持ちいい…コイツは最高だ…」
「な…っ」
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