ひかると恭介が地下用水路をさあ、歩こうかとする、その時。それまで上方から微かにポロ、ポロンとまどかの生存を知らせていたピアノがガーンと激しく1度鳴った。歩みを止め、耳をそばだてても、曲の続きが始まらない。ひかるは堪えきれず音の鳴った方向にまどかの名を呼んだ。が、恭介は振り向こうとすらしない。
「せ、先輩…これは夢、そう…、夢なのよ! 現実ではちゃぁ〜んと先輩とまどかさん、結ばれるハズなんだからぁ」
恭介は返事をしなかった。
ひかるが恭介の顔を覗き込むと彼のくちびるが切れていた。思いっきり噛んだのだ。彼は嗚咽にもならない呻きを全身全霊で抑え込んでいるのだった。だって、彼は永遠に鮎川まどかを失ったのだから。ひかるにとっては夢でも彼にとっては現実なのだから。
あの夏の日も彼は何も言わなかった。
そして、今も。
今ならすぐ鮎川まどかの元へ駆け戻れる。しっかり抱けば少しくらいは残った体温を感じられるかも知れない。でも、彼はそうしなかった。
「さ、行こう。ひかるちゃん」
…こんなのって、ないよ。今日はクリスマスでしょ?。ハッピーエンドにしてくれる約束じゃなかったの?。こんなのって、酷い!。
ひかるはまどかのピアノが途絶えるまでの間、奇跡的な展開っていうのに期待していた。ひかるが想い描くハッピーエンドの条件は3人が3人でいられた日々のように揃っていなければならなかった。1人も欠けてはいけなかった。だから、台本だって煮詰まっちゃっていたわけなのだ。
もうこの先、どう展開したってハッピーエンドにはならない、しかも、こんなに切ない想いばかりさせられる展開に、ひかるはムカムカしてきた。
で。
「やいっ!ガイジン!いい加減にしろー!」
つい、グッと腹筋を入れて思いっきり叫んでしまった。
演劇部で「通りダントツ!」と評価されているひかるの声質。最近は呼吸法なんかも基礎からみっちりやっているから声量もある。当然、広範囲に響き渡る。聞こえちゃマズイ輩にも…。
「へへ、そう怒鳴りなさんな。わざわざ国境を越えてきた甲斐があったってもんだぜ。ん?。手下が2人だけか…まあ、いい。リッチなニューイヤーをありがとよ!」
賞金稼ぎの1人だ。短銃が鈍く光っている。
「これが見えないか?。半径200mは吹き飛ぶ代物だ。しかも、ここは狭い筒状の空間。コイツが爆発したらどうなると思う?」
恭介の100メートル加算したブラフと、手に握られた手榴弾に、賞金稼ぎはたじろいだ。その隙に2人は身を翻して走ったのだ。
「ここの入り口は全て警官隊が抑えてる!。オマエらはもう袋のサンタ、いや、ネズミだぞー!」
ひかると恭介の背中から賞金稼ぎの遠吠えが消えていった。とりあえず、一難は去ったようだ。2人は走るのをやめ、歩いた。ひかるの肩には恭介の手があった。分岐にさしかかる度、無言で恭介の手がひかるの肩に歩む方角を知らせた。ひかるは彼の腰に腕を回し、身体を寄せてみた。が、2人の間には変わらず冷えた沈黙があった。水の流れる音、踏み分ける音が無かったら凍え死んでいたかも知れない。こんなに傍にいるのに…。
行き止まり!?。あぁ〜ん、もぅ、あざとい展開なんだからぁー。
狭い路地の袋小路のように無情な壁が2人の行方を阻んでいる。こういう場合、真っ先に恭介が狼狽えてもおかしくない状況なのだが、彼は行き止まりの壁の一部を、ガコンと外し、ひかるの瞳に目線を合わせた。
「いいかい?、ひかるちゃん。この穴の先にはちょっとした地底温泉湖があるんだ。プールのウォータースライダーの要領で滑ってゆくだけでいい。今のひかるちゃんならまだ、この穴を通り抜けられるはずさ」
ひかると恭介の行く手を阻んでいる壁に丸い穴が開いていた。水面近くに開いているので水が微かに流れ込んでいる。恭介はその穴を指して、地底温泉湖だの、ウォータースライダーだのと、あらかじめセリフを用意していたように言ってのけたのだ。
「お、温泉ー?」
「そう。温泉から上がったら、湖畔にテラスがあるからね。そこに着替えも食料もある。暫く時を待って、それから、テラスの裏側にある通路を真っ直ぐに昇って行けば外に出られるよ」
「せ、先輩は!?」
「僕はもう身体が成長して穴を通らないんだよ。だから、ここで…」
「そんなの、ヤです!」
「ひかるちゃんを守るって、約束したんだ…」
彼は自分が通り抜けられないのを知っていて、ここに来たのだとひかるは悟った。もう何を言っても彼の気持ちは変わらないだろう。一度決断したらテコでも動かない彼をひかるは痛いほど知っている。
夢でもまた…お別れしなくちゃならないんですね。…まどかさんの傍にずっと居たかったクセに、まどかさんとの約束を守って、ここまで一緒に来て、…ホントにお人好しなんだから、先輩は。
「メリークリスマス。ひかるちゃん」
小さな4角の箱。リボンが付いてる。
これって、クリスマス・プレゼント?。
「今、あけていいですか?」
開いてみた…
「こっそり、ジュラルミン・ケースの中から失敬しておいたんだ。はは、オレって本当に泥棒みたいだ。ははは…」
!!
この春日恭介が選択する道は絶対に死しかない。
それを望んでいるのだ。
穏やかな顔をしているのが何よりの証拠。
鮎川まどかの傍に一刻も早くゆきたいのだ。
『掟破りの手榴弾』で守るつもりなのだ…鮎川まどかへの想いを。それほどまでに鮎川まどかを想っていながら…。
「ひかるちゃん。僕は死なないよ。だから心配しないで。さ、追っ手が来る前に」
ひかるは抵抗した。
もう、ぜんぜん演技なんかじゃなかった。
彼のくちびるを強引に奪った。
しかし、彼のくちびるはピクリとも反応してくれない。
拒絶すらしてくれない。
こんなに切ない気持ちにさせておいて、ずるい!
ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい!
ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい!
ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい!
恭介の腕力で穴に押し込められ、彼が、ひかるの手を離した…身体が滑り落ちる…。
「先輩!、先輩!、恭介ーー!」
ズゥゥゥゥンと重い振動が伝わってきた。
こんなのってないよ!。ダメ!。絶対ダメぇー!
こんな夢、もう終わって!。やめてよー!
ひかるの意識は暗闇に落ち、ブラックアウトした。
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