聖オレンヂ歴335年5月某日未明。近衛師団メビューズが反乱軍の汚名に甘んじ、帝都を追われてから、1年の月日が経とうとしている。帝都より相次いで差し向けられる討伐隊、各地守護隊との戦闘の末、メビューズは兵力の大半を失い、今、僅かに残った兵もここバカブ渓谷へ追いつめられていた。幾重なのか見当も付かない敵兵の壁───波状攻撃をかけられたら、ひとたまりもない八方塞がりの局面。
『わっ。危ない!。ちゃんと前を見て走ってくれ!』
戦況にもはや希望はなく、誰しもが自刃を覚悟した時。類い希な剣技で絶望に血路をこじあけ、1人の剣士が現れる。メビューズの面々は奮い立った。剣士の進言に従い、メビューズは剣士の開いた希望への道筋を辿り、バカブ渓谷を一気に駆け抜ける策を敢行。辺境の地クワスガットへ落ちのび再起を!。決して振り向くな!。ただ、ひたすらに走り抜けろ!───その渦中に主人公もいる。
『…って、誰も訊いちゃいないか…』
彼はいわゆる旅の魔導士。たまたま通りかかってとばっちりを受け、降って湧いた災難を目の前にさも、人間らしく途方に暮れていた。
『とにかく、この場からは逃げるが勝ちだな…ワー』
一騎、また一騎。主人公の脇をメビューズの騎馬兵が決死の形相で走り抜けてゆく。運が良かったら逃げおおせる。が、運が悪いと彼のように、蹄(ひづめ)で掻き上げられた土埃を顔面で受け止める。呪文詠唱の集中力が途切れた。すなわち、失敗。
『ぶっ……。くそぉ…』
怒るべからず───生死の狭間にいるのは皆同じ。余計な感情は後回しにして、こんな場面からはさっさとオサラバするに限る。ほら、しんがり中のしんがり、最期の一騎が駆け抜けた。もたもたしてはいられない。あと数刻もここに留まれば墓石を抱く代わりに、追っ手の重装鉄甲兵に安生踏まれて一巻の終わり、はいジ・エンドだ。
『誰かアタシを乗せてリヒドの丘へ走って!。お願い!。あのヒトを見殺しにしないで!』
土埃の中、主人公の視線の先で白い司祭服が見え隠れしている。走り去ってゆくメビューズの騎馬兵が悲痛な叫びを聞き留めていたとして、馬上で騎士のプライドに苛(さいな)まれていたとして、人間には振り向けない事情ってヤツが時にはあるものだ。無数の土埃を引き留めることは出来そうもない。そして、難儀な事に人間には、
『みんな…待って…待ってよ……』
不可能と判っていながら諦め切れない時もある。司祭服はぺたんと地面に座り込んだ。背中に刺繍された神獣ジンゴーロの紋章からして、どうやら召喚魔導を操る者。つまり、召喚士。その身をむしり剥ぐように嗚咽を漏らしている。あまつ、人間ときたら、
『女の子?。お、おい!。キミ!』
余計な感情が判断力を鈍らせると知っていながら、そうせねばならない時もある。主人公は司祭服の頭巾の下を確かめずにはおれなくなった。我が身の心配はどこへやら。召喚士の元へ駆け寄る。こうして、少なくとも3つの譲れない選択が重なって2人は出逢ったのだ。
『ここは危ないよ。はやく逃げた方がいい』
『ほっといて!』
『ほっとけないよ。さぁ、一緒に逃げよう』
『逃げる?…そんな事できない!。あのヒトが…一命を賭して囮をかって出た…あのヒトを置いてなんて…』
『だったら、そのヒトの死を無駄にするな。さぁ、行こう…』
『イヤ!』
───頭巾がはだけた。さらさらショートの栗毛。愛くるしい大きな瞳が大粒の涙をポロポロと零し頬を濡らしている。か、かわいい(おい)。こんな娘をこんな所で死なすワケにはいかない。じゃあ、なにか?。可愛くなかったら───という邪推はさておき、即断即決。血を分けたきょーだいも同然だとか、こういう時に使える召喚獣を持ってないとか、彼女の必死の説明が耳をかすめたが、四の五のは後で訊けばいい。問答無用でもって抱きしめ。
『っ!。変態!』
『ワープ!』
変態と20回程度叫ばれながら、やはり同数、胸を拳で叩かれたのちにワープアウト。そこは、バカブ渓谷を脱したメビューズの面々が集合している大河タマンのほとりだった。神獣ゴールデンフィッシュが対岸への橋渡しに精を出している。対岸の向こうには辺境の地クワスガットの険しい山々。なるほど、対岸へ渡ってしまえば。
『と、思ったら…あなた、魔導士だったんですね!?。しかも変態の!』
『そのようだね。変態は余計だけど』
『神よ!。感謝いたします!(抱きっ)』
『ちょ、ちょ…』
『リヒドの丘です!』
『はい?』
『急いでリヒドの大樹が立っている丘へ飛んでください!』
『飛べって……』
『今みたいにワープするんです!』
『いや、ワープしろって…あの…』
『はやく!。独りで闘っている剣士様をお救いください!』
『え…あ……………え"?!』
『っんもー、じれったい!』
召喚士の少女は、それまで主人公の腰に巻き付けていた両腕をパッと解き、片足で地面をやっつけるように踏みつけた。ぷくっと頬を膨らませ、止まっていた涙がまた、ポロポロと落ちる。───しかし。
『ワープって簡単に言うけどさ。一応、上級魔術なワケで、自分以外に1人しか運べなかったりとかいろいろ制限があってだね。これがまた、けっこー疲れ』
『じゃ、アタシ独りを飛ばしてください!。あとは何とかしますっ!』
『そんな事できないよ。今、リヒドの丘へ飛んだら帝国軍の真っ只中』
『あぁ早くしないと…早くしないと…早くしないと…あの方がいくら強くても死んじゃ…ううん、死ななくても捕まったりしたら…あ、あんなことや…こここ、こんなことをされちゃって、されちゃったら…。い。いやあぁあっぁぁぁあ!(うずくまり)』
『わわわ、わかったって!。いくよ。いきますよ!。はい、じゃ、ほら、いくから!。キミは彼らと一緒にちゃんと安全なところへ逃げるんだよ!。いい!?。わかった!?』
『ごめんなさい…いいです。やっぱり…行ったら帰ってこれないかも』
<リヒドの丘へ行きますか? 行く / 行かない>
『だいじょうぶ。キミは河を渡って向こう岸で待ってるんだ。必ず、その剣士様を助けて戻るから』
キスが主人公の頬で乱舞した。幾つか言付けを頼まれ、預かり物も渡された。そして───。
『無事に戻ったらデートしてくださいねっ♪』
口約束が保証書つきで叶いそうな錯覚に囚われた。これは魔術?。頬をゆるませたまま、主人公はワープを詠唱する。次元の谷間が見えた時、少女の元気な声が遠くで響いた気がしたけれど、聞き取れなかった。
『くぉらっ!。金魚!。もたもたしないで、早くみんなを向こー岸へ運ぶのよっ!。うらっ!』
行き先はリヒドの丘。
古より、いかな干ばつに見舞われようと決して枯れることなく、春夏秋冬、常に葉が緑を保っている事から、潰えることのない生命の象徴、“聖リヒド”と呼ばれる大樹が立つ丘。
間もなく───。
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