───眼鏡の天使は俺に言った。『風邪をひいちゃいます』って。ヤバイ薬をやってたわけじゃない。酒も飲んでいなかった。霊感もない。でも、確かにそう聞こえたんだ。俺は瞬きをした。1秒にすら満たない瞬間さ。その瞬間に天使は消えていた。幻のようにね。だけど、幻じゃない。俺はその一瞬の間に、天使に連れられて何処か他の世界へ行ってきたハズなんだ。胸にはあたたかい感触が残っていて、手には真っ白い花びらがくっついた眼鏡が残っていた。彼女の忘れ物さ。だから錯覚なんかじゃない。
───その雨の夜を境に俺の作る曲は変わった。歌は上達し、演奏も安定した。禁煙にだって成功した。『何か』を手に入れていたんだよ。彼女のおかげだと確信した。だから、今も彼女に感謝して音楽をやってる。ライブの時、俺のピアノに眼鏡が乗せてあるのはつまり、そういう理由だからさ。
───以前、ジャニスが俺のピアノで爪を研いでどうしようもないって話をしたの覚えてるかい?。切ろうとするとふてくされて家出、おなかが空くと戻ってくる、きまぐれなヤツだって話。あの放送の後さ、戻ってくると何故か必ず爪が綺麗に切ってあるんだ。アイツの爪を切るなんて神業だよ。ジャニスは何も教えてくれないけど、誰のしわざか、俺の心当たりは1人しかいない。
───彼女はいつも何処かで俺のことを見守ってくれてる気がするんだ。同時に、あの雨の夜のどうしようもなかった俺のように彼女自身が震えているかも、って心配になる。今日みたいな雨降りの夜はことさらにね。天使にだって誰かの傘が必要な夜があるはずさ。「なぁ、そう思うだろう?」ってジャニスに訊ねたら飛び出してっちまった。アイツ雨は大嫌いなのに。
───猫と人間の以心伝心っていうのかな。ジャニスが飛び出して行ったあと、ピアノの上からチケットがなくなっていた。ワガママ言ってプロモーターから1枚だけ都合してもらった来月の俺のライブのチケットさ。ジャニスが何処へ行ったのか、俺にはわかってる。今日は俺が天使に出逢った日。時間でいうとちょうど今頃。その夜も雨が降っていた。とびきり透明な雨がね。
そして、キャロル・ベイヤー・セイガーの歌声が、春日まなみの部屋へ広がった。あの日、彼女が選んだ一枚。『私自身』からの1曲。
Come in from the rain.
fin.
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まどか: 「レイジ君、全てを忘れては…いなかったのね」
恭介: 「うん。いつか思い出す日がくるかもしれない」
まどか: 「それはそれで、辛いかも?」
恭介: 「いいんじゃない?。オレが同じ立場だったら…」
まどか:「だったら?」
恭介:「内緒♥」
まどか:「あ。ずるいゾ。そこまで言っといて」
恭介:「自分だって、“なんでもない…” って濁してたじゃないか」
まどか:「き、聞こえてたのね?」
恭介:「ばっちり。」
まどか:「恭介っ!」
恭介:「やるか!?」
まどか:「いーよ。もう作ってあげないもん。カレー」
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